信頼されること、愛されること、いつもの鉄道であること―
株式会社セントラルエクスプレスライン

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□コラム『開業へ向けて』(2)

■新会社を任された責任者
 中部新都市鉄道構想が実現に向けて動き出す際、その一番の責任者である社長へと任じられたのが、高岡 定男という人物である。
 実はこの人物、過去にとんでもないことをやらかしていた人物なのであった。
 彼が東海電気鉄道の社長代行だった際、巨額横領事件を引き起こしていたのである。しかしながら、京神急行電鉄ではその横領事件前に東海電気鉄道で示していた営業手腕を買って雇用を決め(浅野社長が東海電気鉄道社外取締役員であった前歴がある)、役員として迎え入れることになった。最も、あの巨額横領事件さえ起こさなければ、優秀な企業人と認められていたのですけれどもね…。
これについては、実質的な親会社となっていた東静ホールディングスの秋月百合子社長は、この人事には抵抗を感じていました。なにしろ、彼女は東海電気鉄道の現社長である秋月花梨の妹であり、父は東海電気鉄道前社長の故・秋月孝仁である。この巨額横領事件は、秋月孝仁前社長が執務出来なくなった際、代理人事として社長代行へと就任させた高岡によって引き起こされ、ついには会社を倒産寸前に追い込んだ挙句に、その濡れ衣を被せられたという苦すぎる過去があるからである。その尻拭いをするかのごとく社長に就任した前社長の長女である花梨と、経営再建のために助けの手を求めた(当時)東静高速鉄道の社長であった次女・百合子は、そのために苦しみ、そして経営再建に向けて努力を続けたのである。
 決して許すことの出来ない因縁の相手…高岡がグループ会社に役員として入社する…到底賛同できるものではありません。
 しかし、京神急行電鉄の浅野社長は「私は社外取締役として、東海電気鉄道に携わってきましたし、秋月社長にとっては到底許せることの出来ない相手というのは重々承知しております。ですが、今回の人事案は東静ホールディングスには関係のないことですし、口を挟まないでいただけますでしょうか」と返します。
 秋月社長としては到底納得はいきませんが、あくまで各社の人事は各社に任せ、親会社といえども口出しはしないし、それによって損害を被っても責任は取らないという姿勢であった東静ホールディングスの方針からすれば、例外的にしても口を出すことは出来ません。
「せめて、あの事を謝るのであれば、彼にチャンスを与えるという意味でも、京神急行の人事には賛同できるんですけどね」
「後日、面談の席で、秋月社長の名前は出さずに、私の口から話してみましょう。難でしたら、別室で(モニターを)見ていただくことも出来ますが」
 そこで後日、秋月花梨・百合子両社長は京神急行電鉄本社へと出向き、因縁相手である高岡と浅野社長及び常務取締役の何人かが面談するところを隠しカメラで撮影し、その映像を別室で見るという形で、その様子を見たようである。
「元東海電気鉄道社長代行だったあなたは、あの事件に対して、あなたは反省してますか」
「なぜ、あのようなことをしたのかと、今では反省しきりですね。刑務所の中で、謝罪の手紙を書きましたよ。やはり、反応が怖くて送れなかったですけど…」
「…そうですか。あなたを役員として登用したかったのは、再び鉄道会社の役員として、今度はしっかりと責務を全うしていただきたいからです。完全にとはいえませんけど、それで企業人としての高岡さんにとって、せめてもの罪滅ぼしになると思いますから」
「流石に、東海電気鉄道の秋月社長たちは、私に敷居をまたぐなと言いそうですしね…。出来る罪滅ぼしとしたら、私が企業人として更生すること、ただそれだけですね」
「私は東海電気鉄道の社外取締役だった人物とはいえ、会社は違いますし、完全に罪滅ぼしになるとは、提案した私でも思っていません。ですけど、高岡さんが京神急行電鉄の一員として頑張っていけば、その働きを秋月社長たちが認めて、いつかは許してくれるときが来るでしょう」
 その後、浅野社長が仲裁に入る形で、高岡は秋月花梨・百合子両社長に謝罪し、ひとまずは手打ちとすることが出来たのです。

一鉄道会社の社長として
   高岡が京神急行電鉄の役員として入社してからしばらく経ち、この中部新都市鉄道構想が挙がった際、その実現に向けて手腕を発揮できる人物として 白羽の矢が立った。ほとんどの目からは左遷と思われそうな人事ですが、秋月社長は浅野社長に人事案を説明する際に「経営を倒しかけたなら、起こすことも出来るはず。基盤はあるとはいえ、この計画を一つの形にして鉄道会社を起こし、経営安定化の波に乗せることが出来れば、それで完全な罪滅ぼしと見なしたい。苦難な道のりになるけど、それを乗り越えていけるかどうか、私たちは高岡を試したい」と説明した。それと同じ事を文書によって高岡に通達し、高岡もこの辞令を受け、まだ見ぬ鉄路の再建に全力を注ぐことを決意した。その後、旧京神急行自動車が中部新都市鉄道と社名を変更し、東静ホールディングス100%子会社化された後、開業準備室として静都浜松駅ビルに整備されたオフィスに入り、初代社長に就任。同じように開業準備室勤務となった社員と共に、再開業を目指して奮闘することとなった。

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